本門戒壇の大御本尊の証拠?日興跡条々事の考察② 余白に何が書かれていたか?
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今回は不自然な余白について取り上げたいと思う。
日興充身所給弘安二年大御本尊□□□□日目授與之可奉懸本門寺
ところで、富士宗学要集を見ると、日興跡条々事の前置きなのか、こんな解説が書かれている(第八巻 18頁)。
目師譲状、祖滅五十一年、富士開山日興上人より三祖日目上人に総跡を譲られたるもの、正本案文共に総本山に厳存す。
この案文というのが日興跡為後書置條之事のことだと思われる。
日興後条々事の下書き、草案に当たるものだ。
創価学会員の金原明彦氏の著書「日蓮と本尊伝承」で初めて公にされた文献だ。
余談だが、立正佼成会の信者である東佑介氏の著書に気になる事が書かれている(大石寺教学の研究 57頁)。
これ*によると、案文(草稿)には「弘安五年御下文」が記されていたが、正本には記されなかったということになり、堀師が正本と位置づけた「日興跡條條事」は清書された正本ではなく、案文ということになろう。
文中の「これ」は、阿部日顕の昭和51年の夏期講習会における講義のことで「日興跡条々事には別に下書きがありますね。下書きには、お下し文ということが書いてあるんです。それをまたお考えになって、この正規の日興、日目上人への譲り状には、それを削られた訳であります。」という箇所を指している。
ここで日顕は「この正規の日興、日目上人への譲り状には、それを削られた訳であります」と述べているので、この削り取られた文献こそが、現在大石寺にある「改竄された後の日興跡条々事」を言っている。
東氏は富士日興上人詳伝で日亨が引用した「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す」(後述)を草案である「日興跡為後書置條之事」と誤認しているようだ。
日亨の引用は種々の史料から導きたした本来の「日興跡条々事」の文を引用したのであり、つまり「改竄が加えられる前の日興跡条々事」を意味していると考えるべきだろう。
話を戻して、日興跡為後書置條之事の当該箇所を解読してみる。
日興カ(が)当身(に)給(る)所(の)弘安貳年大本尊並(びに)弘安五年二月廿九日御下文一期之後日目(に)之(を)授与(す)
奇遇なのは、これについて堀日亨が興味深い事を富士日興上人詳伝に書いている。
まずは本来書かれていたであろう内容の日興跡条々事だ(上巻 161頁)。
一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す。
日亨は日興跡条々事の削り取られた箇所を「弘安五年(五月廿九日)御下文」と解釈している。
余白の広さを見る限りでは、四文字からせいぜいは七文字くらいまでしか入らなそうだ。
括弧書きされた「五月廿九日」については、同日興上人詳伝にヒントがある(上巻 165頁)。
大石寺の目師譲状の御文に「弘安五年御下文」の七字がいつとなしに抹消せられたのも、
日亨が日付を括弧書きとしたのは読者への便宜であり、実際に書かれていたのは「弘安五年御下文」とするのが正しそうだ。
ただ、この場合でも先の草案と内容が異なる。
日亨は「弘安五年五月廿九日」としているが、草案には「弘安五年二月廿九日」とある。
この日付は二箇所に書かれているが、赤字で示した。
どう読んでも「二月」であり「五月」ではない。
次回は、この「弘安五年御下文」について検証したい。