日蓮正宗、人の振り見て我が振り直せ。

12月1日号の大白法を読んだ。

毎度のことながら、大白法には「異流義破折」もしくは「諸宗教破折」という余計なお世話な記事が掲載されている。

今回の議題は冨士大石寺顕正会の浅井昭衛氏の死去について。

 

 

氏の死去について論うなら、日蓮正宗の前法主である阿部日顕氏も死去しているので他人のことをとやかく言えたものではないんだが、今回主に話題にしているのは国立戒壇についてだ。

 

日蓮正宗は、昭和52年路線のとき創価学会が国教化を目論んでいるのではないかと国会で論議され、世間から大きな注目を受けたことで尻込みした過去がある。

時の法主細井日達は「今後、国立戒壇という言葉は使ってはならない」と箝口令を敷き、以後この言葉は宗内で使われることはなくなった。

それほどにも、当時の日蓮正宗が世間から注目を浴びることを恐れていたということが窺える。

日蓮原理主義に傾倒する顕正会はこの言葉を宗門の忠告を聞かず使い続け、最終的には破門されることとなった。

 

こうも顕正会国立戒壇という言葉に固執するのには理由がある。

それは、日蓮一期弘法付嘱書(身延山付嘱書)、三大秘法抄(三大秘法稟承事)という日蓮遺文とされる文献の存在が関係している。

日蓮遺文とされる」と書いたように、この文献は歴史的に偽書との議論が絶えない。

主に大石寺門流ではこの文献を日蓮真筆として重視しており、当然日蓮正宗も第一級の重要文献として扱っている。

もちろん、創価学会も例外ではない。

 

大白法 令和5年12月1日号 6面「異流義破折(239)」より

大白法には

 

宗祖日蓮大聖人は、末法の一切衆生の成仏のために妙法の広宣流布を願われたのであり、国家主義的な仏法をめざされたのではない。衆生の成仏に国家云々は関係なく、大聖人の教えを素直に拝し、三大秘法を受持することこそ重要なのである。

今日、国立戒壇の語を使用することは、余計な誤解を招き、折伏の妨げとなりこそすれ、布教上のメリットはない。

 

と書かれているが、なら日蓮はどうして鎌倉幕府立正安国論を提出したのか?、そもそも広宣流布とは何なのか?、それについて明確に説明するべきだ。

 

日蓮が幕府に立正安国論を提出したのは、同書にある自界叛逆難(内乱や疫病蔓延などの国内の乱れ)、他国侵逼難(外国からの侵略)を回避するためであり、それには国家ぐるみで法華経を広めなければならないと考えていたからだ。

また、広宣流布の目的とは平たく言えば世界中の人々を信者として取り込むところにあり、かつて細井日達舎衛の三億を引き合いに出して、世界の1/3が信者に、もう1/3が理解者に、残りの1/3がそれ以外の状態となったときが広宣流布成就の時であると述べていた。

このような大事業を完遂するには、当然国家主導でなければならず、民衆の意思を尊重するやり方で、ましてや民主主義という自由主義の中で特定思想に統一することなど不可能であることは明らかだ。

 

そもそも、日蓮正宗が時代に反してまで折伏固執し、明治期に摂受に舵を切った日蓮宗を批判している以上、「宗祖日蓮大聖人は、末法の一切衆生の成仏のために妙法の広宣流布を願われたのであり、国家主義的な仏法をめざされたのではない。」などという言葉を発しては、創価学会と同じ穴の狢ではないのか。

こうも自分たちの発言に責任を持てないとは、流石に開いた口が塞がらない。

 

日蓮正宗が重視する文献を見ていけば、この言葉が如何に矛盾しているかがよく分かる。

 

国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。(日蓮一期弘法付嘱書)

 

戒壇とは王法仏法に冥し、仏法王法に合して王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王覚徳比丘のその乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立すべきものか。(三大秘法稟承事)

 

これらの文献は世間では偽書と見られているが、日蓮正宗では重要文献の扱いだ。

それを素直に読めば、明らかに「国主導による国教化」が最重要事項であることは明白だ。

 

自宗に優位になるようにと、様々な偽書を悪用してきた結果、まさか世間から「日蓮正宗創価学会は日本を乗っ取って、日蓮主義を国教化する気だ」などと言われるとは夢にも思っていなかっただろう。

その結果、時の法主細井日達日蓮正宗日蓮真筆として最重視されている文献(偽書)を曲解する愚行に及んだ。

それが事の顛末だ。

 

冨士大石寺顕正会といえば、一部では暴力教団で名が知られている。

彼らがこうも過激になっているのは、偽書である日蓮一期弘法付嘱書、三大秘法抄を字義通り読んだ結果であり、だからこそ富士という場所を重視し、破門された富士大石寺の本門戒壇の大御本尊に固執しているのだ。

日蓮正宗は、こんなモンスター教団を生み出しておいて他人事のように「異流義破折」と称して非難しているが、いわゆるカルト宗教というのは自分の言葉には本当に責任を持たないようだ。

そのことは統一教会にせよ、創価学会にせよ、エホバの証人にせよ、どれを見ても共通している。