【会長本仏論】戸田城聖は悟りの体現者!?
創価学会はもとより、日蓮正宗系の考え方では、「悟達(悟りに達する)」という言い方は多分しないが、強いて意味を言えば「法華経の極意を完全に熟知した」という事で、成仏とはまた別の意味があるように感じる。
本来、「成仏」とは「悟り」のことだし、「悟り」とは「物事の本質に気づく」ことであるが、本題から大きく逸れるので触れないでおく。
日蓮正宗では、法華経の極意(つまり、文底秘沈について)を完全に熟知しているのは日蓮のほか歴代上人だけであると教えてきた。
もっとも、その歴代が本当に知っているかと言えば、それも別問題なのだが。
当然創価学会もそれを踏襲してきたのだが、いわゆる昭和52年路線の指摘を受ける以前は、当たり前のように会長本仏論が唱えられ、「戸田会長は獄中で悟達した」と教えられていた。
記憶では、アニメ「人間革命」で無量義経の「非」についてひたすら思索する戸田の姿が描かれていたと思う。
余談だが、法華経三部経の開経とされる無量義経は原典が存在しないうえ、正体不明の曇摩伽陀耶舎(どんまかだやしゃ;Dharmagathayasas)という人物が訳者と伝えられる真っ赤な偽物の経典である。これについては機会があれば書きたい。
とにかく、昔はことさらに「会長は唯一主師親三徳具備」などと強調されて、日蓮と同格に扱われていたのだ。
会長 創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります。私が「人間革命」第四巻で書き記しておいたように、無量義経の三十四の「非」を呻吟しながら思索しぬかれた結果「仏とは生命なんだ! 生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」という生命内奥から突き上げてくる歓喜とともに悟達された瞬間こそ、将来において世界の哲学を変貌させしむるに足る一瞬であった。この一点をはずして今日の創価学会の思潮の大河はない。すなわち、法華経はいうにおよばず、一切、八万の法蔵は、三世にわたり、人間を含め宇宙、自然の森羅万象を貫く“生命”という実在を説いたものであると決定した瞬間に、創価哲学が開始されたのです。その“生命”とは、内より泉水のごとく発現してやまない究極的な力そのものであり、それを五体に「力感」としてみなぎらせていくところに、仏法の実践があるといってよい。
生命の問題は、理論の分析で解明できるものではありません。結局、肉団の胸中にあるものであり、その胸奥につづられてゆくものこそ、真の経といえます。そうでありながら、しかも全人類に普遍の力をもつものこそ、偉大な円融の法理なのです。
大白蓮華 第276号 14ページ
驚くのは、上記発言が池田大作本人のものであることだ。
さて、果たして戸田城聖はそれほどに偉大な男であったのか?
それについては、別の記事を読めばその片鱗を知ることが出来るだろう。
学会員らが称賛するような人物とはお世辞にも言えないのだが、そんな事はよもや学会員は知らないだろう。
学会員がこの記事を見たところで、どうせデマ、捏造、大昔のことに大騒ぎするな!と言われておしまいなのだが(笑)