創価学会名誉会長池田大作死去で想うこと
両親にとことん強要された信仰のせいで貴重な学生時代は暗黒時代だった。
17日時点で bunkiten611さんのブログを拝見した時点では、私は池田大作は健在だと思っていた。
人の死、ましてや最高幹部である池田大作の死を隠蔽するのは如何に創価学会が政治の中枢に深く介入していると言っても難しいと思ったためだ。
死んだ人物を生きていることにするには死亡届を出さずに遺体を不法に保管しなければならないし、年金を不正受給することにもなる。
たったこれだけのことでも情報リークしてしまえば政権与党公明党、創価学会にとっては大センセーショナルなスキャンダルとなり、会員の動揺は計り知れない。
池田大作の死に関与する全ての人物に徹底した箝口令を敷くのは如何に創価学会と言っても困難だったと思う。
創価学会の関連企業が葬祭会社を経営しているし学会寄りの病院もあるだろうが、創価学会に忠誠を誓った会員であるからこそ池田大作の死のインパクトは大きく、その隠蔽の事実は彼らの忠誠心に相反するものとなるはず。
特に役所への届け出は守秘義務があると言っても全部が学会員だけで仕切られている場所ではないので、口を封じるのは如何に公明党や自民党の政治力を駆使しても難しかったに違いない。
情報網が発達乏しい昭和52年路線や言論妨害事件の時と今では事情が違う。
それに、死を隠蔽することで得られるメリットよりも生じるデメリットのほうが大きそうだ。
以上の理由から池田大作の死の隠蔽はないと思っていた。
私は中学、高校と創価学会の県音楽隊に所属していた。
演奏の機会があれば県内あちこちに赴いた。
高校生だったある日、とある文化会館(数ある会館の中では特に大きい)で大きな会合が催され、そこで演奏の機会があったときのことだ。
一連の会合が終わり「池田先生よりお菓子の差し入れが届いています!」という司会からのアナウンスがあり、会場で一人ひとりに袋に入れられた菓子が渡された。
当時の私は「先生からお菓子を頂いた!きっと親は喜ぶだろう!」と意気揚々と帰宅した。
「お母さん、池田先生からお菓子を頂いたよ!」と報告すると「本当か!凄い!早速御本尊様にお供えしよう!」と、こうなった。
父が仕事から帰宅するのを待ち、家族4人揃ったところで題目三唱して菓子を仏壇から下げ、テーブルにティッシュペーパーを広げ、その上で4人題目を唱えながら徐ろに菓子を等分に割った。
一つずつしかないクッキーやチョコレートをだ。
まるで天皇より下賜された菓子であるかのように、我々は恭しくそれを食べたのだった。
創価学会は口では「池田大作本仏論(会長本仏論)などない!」と言うが、明らかに池田への敬愛ぶりは異常だ。
本部幹部会の衛生中継では、時代劇ではないが「上様のおなり」よろしく「池田先生が入場されます!(拍手喝采)」だったのだ。
そんな両親を狂信者にした元凶と言うべき池田大作がとうとう死んだ。
やっとだ。やっとこの日が来た。
思えば、私の幼少期は常に池田大作の話題が付きまとっていた。
小学生に上がると、夏休みには知らない婦人部宅に行かされ、そこで勤行の仕方を教わった。
そのときにも池田大作の言葉を読まされたりした。
少年部、中等部、高等部と出たくもない部員会に強制的に参加させられた。
社会に出てからも男子部の部会への参加は強制だった。何しろ会場が自宅なのでサボりようがなかった。
こうした「会」のなかで池田大作の話題が出なかった日は恐らく無かったと思う。
先の音楽隊でも練習前に必ず「音楽隊訓」という池田大作が音楽隊に宛てたという手紙を暗唱、拝読させられた。
「謹んで音楽隊訓を拝読させていただきます!」という軍隊式のやり方だ。
県の文化祭で池田大作を目前にしたときには「池田先生!」と叫びながら涙をボロボロ流したこともあった。あれは一体何だったのだろう?
兎にも角にも「池田先生」であり、何でもかんでも「池田先生のため」「池田先生のおかげ」だった。
そんな我が人生を否応なしに共に歩まされた池田大作がとうとう死んだのだ。
80歳を過ぎた父は池田大作の死をどう受け止めたのだろうか。
人生の大半を創価学会に捧げ、家族を犠牲にしてまで忠誠を誓った創価学会は父に何をしてくれたのだろうか。
「一家和楽の信心」などと言っておきながら家族離散した今、返せるあてもなく何れ借金の抵当で取り上げられる広い自宅で何を思うのか。
しばらく、私の過去を回帰する思索は続きそうだ。