日蓮正宗に感じる違和感「創価学会化」
日蓮正宗の信者を見ていると、地域、寺院によって創価学会とは比にならないほどの温度差がある。
突き詰めればその寺の教師(住職)によって色が出てくるのだと思うが、とにかく寺によって活動の本気度にしろ、折伏の成果にしろ、全く違っている。
例えば、大石寺塔中(たっちゅう)の理境坊(りきょうぼう)には妙観講(みょうかんこう)支部があるが、ここは日蓮正宗法華講の中では「対創価学会部隊」のイメージがある。
理境坊は非常に大きな講中で、その規模は1万人にも及ぶという。
しかし、実際には対創価学会部隊は百人規模ではないだろうか。
他にも、長野県妙相寺も活発な寺院で知られている。
地方末寺でありながら信者は全国に散在しており、日蓮正宗では珍しくSNSを駆使して全国から信者を集めている。
毎月の御講のために飛行機で駆けつける信者までいる。
あとは、東京池袋法道院、常在寺などは有名巨大寺院だろうか。
全国を見渡すと、場所によっては500年、600年近い歴史を持つ名刹もあるのだが、大半は創価学会蜜月時代に建立された寺院であり、外観は昭和40〜50年代初頭に流行したコンクリート造りである。
伝統的な和風伽藍は稀だ。
大きく分けると日蓮正宗には何種類かの信者がいるように思う。
一つが旧信徒だ。
先祖代々の法華講であり、信者は特別活動に積極的ではなく、重要な法事には参加するものの、創価学会を相手にしたりはしない。
教師(住職)に媚びることもなく、タメ口で話す人も珍しくない。
そして、実は正式な日蓮正宗信徒というのは、この旧信徒のことなのである。
我々一般信者は形木本尊を下付されているが、旧信徒は手書きの常住本尊を下付されているのである。
堀日亨が有師化儀抄註解(富士宗学要集第一巻P113)にて述べているが、形木本尊とは仮本尊であり、我々は仮信者であるのだ。
二つ目が昭和52年路線のタイミングで創価学会を退会し、以来法華講として活動している人達。
この人達もそんなに活発ではないし、多くはないだろう。
というのは、当時は創価学会から信者を引き抜くことを宗門が禁じていた為である。
三つ目が平成3年の創価学会問題の時に創価学会を退会し、法華講となった人達。
52年路線の時と似ているが、この時は創価学会が表立って宗門に反旗を翻し、実際に破門されている。
この段階で宗門に呼応して移籍した人達だ。
この人達も日々の創価学会を嫌ってのことであり折伏に積極的とはいえない。
但し、旧信徒、52年路線の人達と比べると身内の折伏には積極的だ。
最後が平成3年以降で近年創価学会から移籍してくる人達だ。
ここ10年で急増しているようだ。
私もこのカテゴリに属す信者であり、(確か)15年前、平成20年の移籍である。
近年日蓮正宗が最も力を入れて信者を集めた「立正安国論正義顕揚750年法要」のあった平成21年の前年の入信と記憶している。
この世代の信者の人達は他のカテゴリの人とは一線を画している。
まず、対創価学会部隊の大半はこのカテゴリの人達が出身である。
特に創価学会員、顕正会員への折伏に熱心であり、人によっては他宗宗教施設に破折と称して押しかける活動家までいる。
TwitterやFacebookなどでこの手の人達は簡単に見つかり、自身の携帯電話番号まで公開し、表向きには「創価学会被害者相談窓口」を装っている。
大半は教師に媚びており、教科書通りの呼び方で「御住職様」「御尊師」などと読んでいる。
平成3年以前の人達が「住職さん」「住職」「先生」「○○さん」と呼んでいるのとは対象的だ。
このように、一言に日蓮正宗信者と言っても一様ではなく、入信動機によって著しく価値観が違うのだ。
立正安国論正義顕揚法要の直後、平成27年の日興生誕770年の佳節を迎えるにあたり、早瀬日如は新たな命題を課した。
これには大きな違和感を感じた。
立正安国論正義顕揚750年の際にも違和感を感じるべきであっただろうが、当時はいかんせん私は新参法華講員であり、その違和感に気づくことはなかった。
これについては他の人達から聞くと、平成6年の地涌六万法要のときには既に今と似たような違和感が生じていたようだ。
とにかく、平成3年に創価学会を破門してからというもの、宗門は事ある毎に創価学会を意識し、対抗しようとしてきた。
信者の90%を失ってからのスタートであり、最初から争いになる相手なんかではないのだが、それでも戸田城聖時代の創価学会と見紛うほどに活発化していた。
そして、あれほど批判していた創価学会と活動内容は酷似している。
創価学会蜜月時代(いわゆる、日蓮正宗創価学会時代)は、法華講は折伏などまずしていなかったように思う。
勝手に創価学会がでしゃばり、寺院所轄の地域学会員が折伏し、寺に連れて行って授戒させていたというのが実情だろう。
最も敵視しているはずの創価学会を模倣しているというのは、上層部は知っていてのことなのだろうか?