創価学会の親に潰された人生

今回はかなりの長文なので、読んでいただこうという意図はなく、単なる愚痴だ。

私の転機は小学2年生の時に転校したことにある。

今でも「あの時転校しなければ別の人生があったのではないか?」と自問自答する。

 

 

宗教二世、三世の問題は安倍晋三元総理大臣の銃撃死亡事件で漸く世間に認知された。

犯人の山上被告の母親は熱心な統一教会の信者で、彼の家はおそらくは相当裕福であったのに、母親の信仰が原因で家族離散、最後には悲劇的な結果を迎えてしまった。

皮肉なことに、この事件によって私たち宗教二世、三世の苦悩は世間に知られることとなり、「宗教二世問題」という言葉が生まれた。

つまり、宗教二世問題はまだ認知されて一年しか経っていないのだ。

 

 

振り返れば、私の人生は苦悩の連続だった。

毎年12月、京都清水寺で発表される「今年の漢字」ではないが、今私の人生を漢字一文字で表現するなら「苦」だろう。

きっと、小学2年生のあの時、転校しなくて済めば別の人生があり、こんなにも苦痛に満ちた生活を送ることは無かったのではないか。

このようなタラレバに意味はないのだろうが、今でもそう悔やんでしまう。

 

 

両親は創価学会の会合で出会い惹かれて結婚したという。

私が赤ん坊の頃は父の会社社宅で過ごし、間もなくして家を買って移り住んだのが一番最初の私の記憶している家だ。

弟が生まれ、当時は祖母もいたので手狭になったこともあり、予てより転居を考えていたようだ。

そうして何件かのモデルルームを見学し、別の市に転居することとなった。

 

小学2年生までは、近所に幼馴染がいていつも仲良く遊んでいたが、彼らは今どういう人生を送っているのだろうか。

転校の最後の日にはクラスメイトが盛大なお別れ会を開いてくれた。

色々なプレゼントをもらい、寄せ書きも貰った。

今でもあの時のことは懐かしい。

 

 

転校した先では初っ端から冷遇された。

学校での教師ガチャが不運だったことは宗教とは関係のない問題だとしても、両親の信仰心に火が付いたきっかけの一つでもあり、これが私の不幸の始まりだった。

 

転居先の創価学会組織は活気がなかったらしい。

当時の創価学会では、折伏(布教活動)、新聞啓蒙(聖教新聞の購読者を増やすこと)、選挙(当然、公明党支援者を増やすこと)が最も重視されている活動内容だったが、転居先の組織はどれも他の地域より劣っていた。

両親はこれを立て直すべく死ぬ気で活動に奔走した。

そして結果はすぐに役職昇進という形で報われることとなった。

 

二人とも、転居前は地区B担だかB長だかの、今で言えば地区部長以下のほぼ末端の役職だったが、気づいた頃には組織の要とも言われる支部長、支部婦人部長に昇格していた。

家には支部長の証である「例の賞状」と、支部旗が誇らしげに飾られていたが、二人の虚栄心はさぞかし満たされたことだろう。

昨年死去した母は最終役職は県副幹部にまでなっており、父は副本部長になっていた。

 

子供の頃、平日は父は仕事が終わればその足で組織の集まりに出ていたし、母も朝から晩まで「今日は何処そこ地区の座談会だ、今日は何々地区だ」と言って家にいたためしがなかった。

幸い、当時は祖母が健在だったので私と弟の面倒は祖母が見てくれていた。

共働きというのでもないのに、両親は平日、休日問わず家にいなかった。

久しぶりの家族旅行で行くのは、東京都新宿区信濃町創価学会本部、或いは静岡県富士宮市日蓮正宗総本山大石寺だった。

 

 

転校先の学校ではなかなか周囲と馴染めず、何しろ大正生まれの担任の教師が意地悪をすることもあって友人が出来ずにいた。

教師の「転校生のくせに頭が悪い」という悪口で傷つき、親に相談したことが私の人生の失敗の始まりだった。

両親は私の為を思っての行動だっただろうが、小学2年生の私に折伏、新聞啓蒙、選挙活動を課したのだ。

私も要領が悪かったので、「やったフリをする」ということを知らず、しかも両親から「信心の活動をしないと地獄に落ちる」と脅されていた為、バカ正直にそれを行ったのだった。

 

やっと出来た友達から貰ったお守りを隠し持っていたときには、父から袋叩きにされ、夜中になるまで家から閉め出された。

喉が枯れるまで泣きじゃくり、酷いしゃっくりで呼吸困難になったことを今も覚えている。

お守りは父に無惨にハサミで切り刻まれ、庭先で燃やされた。

友達には「失くしちゃった、ごめんなさい」と謝ったが、それがきっかけで絶交された。

それをまた両親にバカ正直に涙ながらに伝えると「○○(私の名前)、お前は正しいことをしたんだ!それで去っていくような奴は友人でもなんでもない!こっちから願い下げだと言ってやればいい!」などと言われた。

こうして私はせっかく出来た友人を失い、他のクラスメイトはおろか、教師からも無視されるようになったのだった。

振り返れば、学生時代に思い出といういい思い出は何もない。

あるのはただ嫌な記憶ばかり。

 

 

家の中では私は我が家の宿命を背負う子、などと言えば聞こえはいいのだが、実際の所トラブルメーカーだと思われていたように思う。

対して私を見て育った弟は実に要領よく順風満帆の人生を謳歌していた。

しかし両親は私の表層的な面しか見ようとせず、弟が順調であることを引き合いに出し、努力不足、信心不足だと責めるのだった。

今思えば、私が正直に悩みを打ち明け、そのアドバイスに従ったことが人生が転落するきっかけとなったのだった。

 

 

学校で折伏やら選挙活動をすれば当然周囲から変な目で見られ「こいつ気持ち悪い」と思われる。

次第に私はイジメを受けるようになった。

毎日のように使い走りにされたり、変なあだ名を付けられて馬鹿にされたり、殴る蹴るの暴行を受けたり、金を巻き上げられたりもした。

その悩みを親に相談すると「お題目をあげろ!宿命転換だ!」という言葉ばかり。

今思い返しても酷いもので、我ながらよく自殺しなかったものだと感心する(自殺未遂を起こして騒ぎにはなった)。

これがきっかけで私は次第に心を閉ざし、精神的にも異常を来した。

 

 

高校に入る頃には周囲が自分を「気持ち悪いやつ」だと見ていると思い込む醜形恐怖症の症状を発症する。

通学電車の中でいつも誰かが私のことを好奇の目で見ているという被害妄想に苦しんだ。

小中学校はサボらなかったものの、高校3年のときには単位ギリギリまでサボるようになり、グレたりもした。

既にこの頃には鬱病を発症していて、完全にクラスから孤立していたこともあって、修学旅行は教師に相談して行かない決断をし、意外なほど簡単に休みを認められたのは当時の私には幸いだった。

 

 

波乱万丈な学生生活の後、就職したわけだがこのときには鬱病から更に不安障害、パニック障害を罹患するに至った。

既に通常の生活を送ることさえ苦痛になっていて、今思えばかなりの好待遇で入ることが出来た会社をたったの2年足らずで退職することとなった。

 

 

20代も終わりに近づいた頃、やっとの思いで某家電メーカーへ就職し、そこで一定の評価を得るようになった。

たった一つ、自分に誇れる唯一の仕事であり、私の人生の最初で最後の絶頂機だった。

 

愚かだったのは、評価されたことを母に誇らしげに自慢したことだった。

「○○(私の名前)、じゃあ評価して下さった事業部長さんへの恩返しに、折伏しなさい!お前の宿命転換のときだ!

と言われ、私は「しまった!」と思ったがそのときには遅かった。

折伏』という言葉を聞いた以上、その指示に従わなければ…

冷静な判断など出来ず、何よりも私は「信心の活動をしないと地獄に落ちる」ということを恐れたのだった。

今思い返しても私に施された「洗脳」は強烈だった。

抗うことなど出来るわけもない。

私は「宗教」という檻に心を閉じ込められ、完全な自由は無かったのだ。

 

後日、私は事業部長に相談したいことがあると伝え、仕事後に時間を作ってもらった。

きっと事業部長は真面目な仕事の相談であると思ったに違いない、二つ返事で快く応じて下さったのだった。

他愛のない世間話や仕事の雑談の後、私なりの真摯な言葉で創価学会について話し始めた。

怪訝な顔をしつつも、最初は私の話を黙っていた事業部長だったが話を遮り、

「○○(私の名前)君、君は創価学会から金でも貰っているのか?はっきり言って私は君に失望した。君のことをそれなりに評価していたつもりだったが、結局仕事を頑張っているのは宗教勧誘のためだったということか。」

こんなようなことを言われた。

事業部長は私の分の会計まで済ませ、足早に帰っていった。

ショックで唖然とした。

 

私はその足で実家に帰り、状況を母に泣く泣く説明した。

母は私からもらい泣きして

「○○(私の名前)、お前はよくやった!その何とかっていう事業部長の目は節穴だ!お前は宿命転換を果たしたんだ!

と言われたが、内心は大事な上司の信頼を失ったことで大きなショックを受けていた。

ほどなく、私は仕事がしづらくなり退職することとなった。

 

 

こうして、私は何かあるたびに親に自分の人生を潰された。

人生を潰しておきながら、やれ宿命転換だ、罪障消滅だ、と言って私を散々に騙していたのだ。

最も腑に落ちないのは、同じ家族である父や弟が仕事上何の不利益も被っていないことだ。

苦悩ばかり経験する私には、自分たちでさえやっていない職場での折伏を要求し、そうして私の生活を奪ったのである。

しかもその自覚さえなしに。

 

 

宗教二世問題を経験していない方からすれば「自分の選択の結果だろ」と思うかも知れない。

しかし、私に施された宗教の「洗脳」は強力だった。

親に言われた指示に従わなければ、それはもう「謗法」(ほうぼう)なのだ。

謗法とは「正しい教えを誹謗すること」だが、創価学会日蓮正宗においては広義には、やるべきことをやらないことも謗法と解釈されていて、両親の口癖は「大謗法だよ!」だった。

この言葉は、私を脅すのに十分過ぎる効果を持っていた。

それを知っていたからこそ両親は多用したのだろうが。

 

 

母は昨年18年間の闘病の末にこの世を去った。

18年間の闘病は想像を絶するものであったに違いない。

私は人生の大半を親に奪われたが、母に関しては十分な苦痛を受けたので水に流すことが出来た。

しかし、父に至ってはそういう気持ちを抱けない。

父もまた、母の18年にわたる介護生活という辛酸を舐めただろうが、家族に隠して1000万円近い借金をしていた事実が判明し、私の中で何かが崩れてしまった。

 

去年、母を亡くしてからは父になるべく親身に接してやろうと妻と相談していたが、母の一周忌を迎えるにあたり、父との関係を精算した。

というのは、父に「○○(母の名前)の一周忌は来なくていい。何も兄弟関係が悪いのにこっちに来て波風を立てることはない」と言われたからだ。

毒親育ちというのは、決まって兄弟関係が良好ではない。

多分に漏れず我が家も弟との関係は最悪で、思春期を過ぎてからはろくに口を聞いた試しがない。

父は現在、弟が出張で外泊する際に弟の飼い犬の面倒を見るために弟の家に宿泊する関係だという。

そのため、実家とほど近い弟の家とを頻繁に行き来するようになっていたようだ。

要するに、私が邪魔であるということだ。

 

 

父が金の無心をしたとき、親身に話を聞いて対応していたことが馬鹿らしくなり、「一周忌は来なくていい。」と言われた瞬間、長きに亘って押さえてきた感情が爆発した。

高校のときまでは家庭円満に見えていた我が家だったが、蓋を開けてみればこうして家族離散。

母が口癖のように言っていた「一家和楽の信心」とやらは、砂上の楼閣だった。

 

今、父との関係が最悪に終わったことを母が知ったら一体どう思っただろうか。

今も度々物思いにふける事がある。

「もし、我が家が創価学会でなかったなら...」

「もし、小学2年生のとき、転校しなくて済んでいたら...」

考えても無駄なのに、奪われた人生について考え、別の人生を歩んでいる自分を妄想してしまうのだ。

しかし、失った時間、奪われた私の尊厳は二度と戻ることはない。

 

 

年老いた父が1000万円もの借金を背負っているなどとは弟は夢にも思わないだろう。

そんな父に安い中古車を買い与えるのだから「借金のことは墓場まで持っていくつもりだ」と言って、恩を仇で返されたらどう思うだろうか。

腹を立てる頃には父はこの世にいないわけだが。

父が残している1000万円の借金、飼い猫の面倒を見るのはまっぴらだ。

もう葬式を含めて父に関わることは無いだろう。

 

 

不謹慎なことを言うと、私はかの統一教会の山上被告に酷く同情してしまうのだ。

彼の半生は報道で聞く限りでも私より凄惨だ。

彼の親が統一教会などに現を抜かすことがなければ、彼は犯罪者になることはなく、当然安倍晋三氏も命を落とすことは無かっただろう。

そんな統一教会は宗教法人格を取り上げられ、解散命令が下されようとしている。