宗教に依存すると信者は自分で考えなくなる
およそ一年振りにブログを更新した。
引っ越し、母の死、父との対立など、あらゆる問題に直面し、なかなか更新しようという気が起きなかった。
うちの両親の馴れ初めは創価学会の集会(座談会か?)にあったと聞いている。
悔しいが、創価学会で二人が出会わなければ私はこの世に生まれてくることすら無かった。
もっとも、生まれてこなかった方が良かったと思っているが。
そんな両親は、私が小学2年生の頃引っ越したことを機に変わった。
それまで住んでいた家は、とても手狭で少しでも広い家へと別の市に引っ越すことを決めた。
両親曰く、引っ越した先の創価学会組織は、みなやる気がなく、折伏にしろ、新聞啓蒙にしろ、日々の活動にしろ、真剣にやっている様子では無かったと言う。
また、この地域は古い町並みでそこかしこに神社や寺があり、年に一度周辺の道路を封鎖して、大規模な祭りが行われるほどの「邪宗の都」だった。
創価学会の歌、いわゆる学会歌「威風堂々の歌」の三番の歌詞には「我ら住む日本の 楽土見ん 北山南河は邪宗の都」とあるくらいで、それほどに創価学会は他宗教を邪宗と罵り、嫌ってきた。
そんな地域に引っ越して、組織で活動をするうちに、両親は他の学会員から称賛されるようになっていく。
始めはB長だかB担だかのほぼ末端の役職だった両親は、あっという間に支部長、支部婦人部長の座に上り詰めた。
多くの学会員に称賛され、両親の虚栄心は大いに満たされたに違いない。
しかし、私は幼くして見知らぬ地に転居し、学校にも馴染めずにいた。
加えて、宗教に関わる学校行事に不参加を強制されていたことから、教師から煙たがられていた。
両親は、当時存命だった祖母に家事子育ての多くを任せ、母は平日の朝から晩まで活動に奔走し、父も土日そっちのけで「今日はどこそこの座談会だ」「今日は何何だ」と言って、殆ど家にいることはなかった。
幼い頃の心の拠り所は、今は亡き優しい祖母だった。
父は当時、仕事では係長職で、私が後に知った限りでは平均的な給料を貰っていたように思う。
それなのに、我が家は慢性的に貧困状態にあった。
小学生の時に貰った小遣いは月500円だったが「今月は厳しいから」と言って、その500円すらもらえない時があった。
何しろ、金があったらあっただけ「ご供養」や、学会の活動費(交通費や遊興費)で使ってしまうので、貯金など全く出来ない、というより貯金という発想そのものが無かったのだ。
今思えば、遊興費にかこつけて、両親は私たちの知らぬところで飲み食いしていたことになるわけだが、それも二人からすれば「広布のための清い行いの一環」だったのだろう。
金の話に子供が口を挟むのは悪いことだと言われていた時代だけに「お父さんは給料は幾ら貰ってるの?」などと聞こうものなら、口より先に手が出て「子供の癖に親の金の話に口を挟むな!」だった。
そんな環境なので、家計のやりくりなど知るよしもなかったし、何より金について学ぼうという発想そのものが芽生えなかった。
成人してずっとしてから「我が家の貧困は、宗教が原因だった」と気づいたのだった。
両親はその事実にずっと気づくことは無かった。
母に至っては、その事実に触れることなく、昨年病死した。
母の病死を機に、父は今まで続けてきた「自転車操業」のツケを払わされることとなる。
この時になるまで、一切、貧乏の要因について考えることは無かった。
私が幼少期に酷いイジメに遭ったことにしても「うちの子がいじめられる原因は何か?」ということについて考えようとはしなかったようだ。
ただ、私の過去世(前世)の宿業で、今その報いを受けている、そう繰り返すばかり。
当時は、自分の記憶にもない前世とやらの行いの報いを受けさせられているということに激しい理不尽を感じていた。
しかし残念ながら、幼少期から徹底して「宗教が何よりも優先される」という思考が刷り込まれていたため、深く考察しようという発想が持てなかった。
学校でいじめられるのも、社会に出て会社で人間関係が上手くいかないのも、体調不良が続くのも、ありとあらゆる不幸に思える要因は、私の前世の報いにあると言うのだ。
子供の頃、泣き泣き「俺は一体過去世に何をしたっていうの?人殺しでもしたの?どうして俺だけこんな目に遭うの?」と母に問い詰めたことがある。
いつも帰ってくるのはこんな言葉だった。
「お前(私)はきっと、仏法の邪魔をしたり、そういう人を殺したのだろう。そうでもなければ、こんな目に遭うはずがない。でもね、これだけ悲惨な目に遭うということは、お前はそれだけ大きな宿命を持っているんだ!私(母)は嬉しい!お前みたいな大きな宿業を持つ子を迎えられたのは、きっと我が家が宿命転換を果たすためなんだから」
もし、もっと頭の良い親に巡り会えていたら、いじめられる原因についてはっきり教えてくれただろう。
イジメはいじめる側が悪いが、されるのにも多くの場合理由がある。
それを知って、少しでも友人を作って多くの仲間を持っていたら、陰湿なイジメの被害を受けるリスクは減らせたのでは無かっただろうか。
母は「反面教師」の意味で、イジメ加害者を「第六天魔王となってお前に(仏法誹謗の罪業の重さを)教えてくれている」と言ったのだろう。
余談だが、私が病気がちなのは、酷いイジメに遭ったのに無理矢理学校に通わされ、殴る蹴るされるたびに「相手がお前(私)の業を受け取ってくれるんだから感謝しろ」と言われ、我慢を続けた結果だと思っている。
今でも、急に過去のことを思い出し、精神が情緒不安定になることがある。
ニュース報道で他人の酷いイジメの話を聞くと、激しい動悸と加害者に対する異常なまでの怒りで、精神が普通でいられなくなってしまう。
若いときには、これで過呼吸発作を起こすこともあった。
酷く自律神経を崩し、何をやっても不安を感じる、そんな自己肯定感が低く生きることが苦しい子供に育ったのはこういう家庭環境にあったからだ。
そして、これだけ子供を追い詰めてなお「我が家の経済革命だ!」と言って、給料の大半を宗教活動や「ご供養(広布基金=財務)」につぎ込んでいるんだから、「考えないで行動する」というのが如何にたちが悪いかよくわかる。
しかし、こうして我が家を冷静に分析できるようになったのは、つい最近のことであり、親への反抗心から創価学会を脱会し、日蓮正宗に入信してもなお気づくことは出来なかった。
それでも何とか我が家のやりくりが上手く回って見えていたのは、30数年前に建てた自宅を担保とするカードローンがあったからだ。
ひょんなことでこの存在を知ったのは昨年のこと。
父が金策に追われ、私に金を無心して泣きついてきた時に初めて発覚した。
金を貸すような余裕のない私は、債務整理をすべく父に通帳のコピーを送らせたところ、不信な引き落としがあり、それを問い詰めた結果分かったのだ。
引き落としについて尋ねても「言いたくない」「言えない」を繰り返すばかり。
「いい加減にしろ!金払えないって言うなら、はっきりさせるしか無いだろ!」と迫ったらやっと口にした。
その額、実に970万円。
もはや、債務整理どころの話ではない。
常日頃、家計簿など付ける習慣の無かった母は、父の給料が底をつくと父に金の相談をしていたようだ。
すると、そのカードローンから借り入れし、足りない生活費やら学会の費用に充てていた。
母はその出処不明の金について問い詰めることはなく、また父も足りない生活費について聞こうとすることはなかった。
その生活費の不足分は、負債として長い年月をかけて1000万円近くにまで膨らんだ。
全く、嫌というくらいに「何も考えない」のだ。
なまじそれで何とかなっていたのが運の尽きだ。
もし、あと15年早くこの借金に気づくことができていれば、家族総出で返済することが出来たかも知れない。
そう思うとやるせない気持ちだ。
もはや、家を担保にした多額のローンを返せる目処などなく、父は毎月利息だけを返済している。
こんな生活を最低でも20年以上続け、私たちを欺いてきたのだ。
この借金の事実は「墓場まで持っていくつもりだった、話さないつもりだった」と言われたときには、「ただでさえ関係が悪い俺と弟に借金の事で仲違いさせるつもりだったのか!?」と思ったものだが、当の父は何も考えてやしなかったのだ。
父が寿命を迎えれば、思い出の詰まった実家や家財道具一切合切が失われてしまう。
片田舎の二束三文の土地に建った築35年を超えるような家をどうして1000万円も払って取り返そうという気になれるだろうか。
宗教二世の苦しみは、単に価値観を押し付けられることに終わらない。
幼い頃から洗脳(親にその自覚はない)され、徹底的に骨抜きにされ、何を判断するにも宗教が前提になってしまうのだ。
つまり、人生の大事な選択全ては宗教で決めてしまっていて、自分の頭で考えない。
「人を恨んでも何もいいことなんてない」
このように言う人がよくいる。
その人にもその人なりの苦労があるだろうが、人生の9割をぶち壊された人間にとって、この言葉は非常に残酷なものだ。
皮肉なことに、宗教二世問題は安倍晋三元総理大臣の銃撃暗殺事件で注目されることとなった。
犯人の山上容疑者が行ったことは決して許されるものではない。
何故に標的を安倍晋三氏にしてしまったのか?という疑問もあるが、彼の凄惨な生い立ちを知れば知るほどに「きっと、彼の境遇なら私も似たようなことをしただろう」と思ってしまう。
彼も気がついたときには何もかも手遅れで、考えることをしない親に激しい憤りを感じたに違いない。
宗教の恐ろしさは、この「自分で考えない」というところにあると思う。
我が家を振り返れば、大事な選択は全て宗教で片付けてきた。
「ご本尊様に祈って決めよう。ご仏智を頂いて決めよう」
と、こういう感じで。
その末路は、家族関係崩壊という形で幕を閉じようとしている。