「『祈りとして叶はざるは無し』の信心」と言う言葉に翻弄される学会員、法華講員
この言葉は大石寺第26世、日寛の言葉だ。
学会員(日蓮正宗法華講もそうだが)の中には日蓮の言葉だと誤解している人も多い。
良くある決まり文句で、どんな宗派にも似たような言葉はあるだろう。
問題なのは、この字義を本気にし過ぎている事だ。
創価学会、日蓮正宗には宿命転換とか罪障消滅、宿業転換、転重軽受、願兼於業などの様々な言葉があり、都合よく使われてきた。
宿命転換(しゅくめいてんかん)は創価学会で主に使われる言葉で、不幸な宿命を信心によって幸福に変えると言う意味がある。
宿業転換(しゅくごうてんかん)は日蓮正宗で使われるが、自分が持つ不遇なカルマ(業)をやはり幸福に変える意味がある。
余談だが、創価学会と決別後の日蓮正宗は伝統的に学会起源の言葉を避けるため、同じ意味でも言い換えを行う傾向がある。
罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)は創価学会でも使われてきたが近年は余り使われず、専ら日蓮正宗で用いられており、信心により、前世に積んだ悪業を精算する意味がある。
転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)は「重きを転じて軽く受く」と読み、涅槃経にある言葉で、背負っている悪いカルマの重い報いを文字通り、転じて軽く受けて精算する意味だ。
願兼於業(がんけんおごう)は願って宿業の深い境遇に生まれる事を言い、例えば池田大作は「宿命を使命に変える」などと説明している。
こうした言葉は、本来は善意で使われるのだが、必死に信心に向き合ってきた人を傷つけ苦しめる。
「必死にお題目をあげているのに、なかなか状況が好転しない」
と悩んでいる同志に
「〇〇さん、もっともっとお題目を頑張って宿命転換だよ!」
などと言うのだ。
言われる側は「こんなに頑張ってるのに、まだ足りないのか?」と思ってしまう。
それもそのはず、一日に10時間の唱題を行っているような人もいて、それ以上の頑張りようがないからだ。
次第に疑問が生じ
「あんなに必死で信心を頑張って来たのに、状況は悪くなるばかりだ」
などと愚痴を言う事もある。
すると
「〇〇さんが功徳を貰えないのは、信心に疑いがあるからだ」
などと言われてしまう。
勉強や仕事なら、時にスランプがあったとしても、努力しただけ報われるのが普通だ。
例え、学校や職場で正当に評価されなくても、その努力は確実に身になっており、必ず役に立てる方法がある。
しかし、創価学会や日蓮正宗の信心をどんなに必死にやったところで、信心の外では何の役にも立たない。
その上、同志には心無い言葉を投げつけられる。
こうして、真面目で誠実な人は次第に信心から遠のいてしまう。
真面目で誠実かはともかく、私もそんな扱いを受けた一人で、一人暮らしをしていた時に世話になった地区でふと愚痴を言った事をきっかけに居場所を失った。
「最近の創価学会は何か違う気がする。池田先生は素晴らしい師匠かも知れないけど、俺が大事だと思うのはあくまで大聖人と御本尊だ」
との主張をした時返ってきた男子部地区リーダーの言葉は
「(私)さんは脱会してください、後日脱会届を持ってきます。師弟不二を忘れた人は学会に要らない」
で、即座に地区で共有され、座談会の誘いすら来なくなった。
師弟不二とは「師匠(池田大作)と弟子(学会員)は二つではなく一つの存在」と言う一致団結を意味する言葉だ。
恐らくは、この地区では私は裏切り者として扱われたに違いない。
その年の年末にも男子部地区リーダーと地区部長、地区婦人部長、その他の地区の人達に年賀状を出したが、こちらにも差し出して来たのは地区の親切だったご婦人を除いて事情を知らない人だけだった。
そしてそのご婦人は翌年、癌で亡くなった。
今にして見れば、これがあったから学会に見切りを付けることが出来たので、寧ろ感謝すべきかも知れない。
残念だったのは、その後に日蓮正宗に入信してしまったことだ。
日寛の「祈りとして叶はざるは無し」の実態はこんなものだ。
「そんなことで騙されるなんて馬鹿すぎるだろ」
と思うだろうが、それが分かっていたらとっくの昔に創価学会も日蓮正宗も辞めている。
生まれながらに信心の家庭に生まれた「福子」と呼ばれる二世、三世はその事実に気づくのにも一苦労なのだ。
創価学会、日蓮正宗でどんどん出世していくのは結局のところ俗世と同じで、要領の良い人のようだ。
創価学会での役割が要領の良さで決まるなら、信心の意味なんて最初からない。
創価学会、日蓮正宗は、必死に本気で努力し、頑張る人ほど馬鹿を見る世界だ。