創価学会の「信心」で金持ちにはなれない!病気は治らない!難関校にも受からない!
こんな当たり前すぎることも分からなかった両親。
これを現役の学会員に訪ねればこう言われてしまう。
「現世利益を追求するからそうなるんだ」
ではそもそも、創価学会の信心とやらで何が変わるんだろうか?
それは、学会で日頃から使われている言葉にヒントがある。
池田大作氏の著書で学会員の実質的な聖典である「人間革命」だ。
池田氏は法悟空のペンネームでこれを執筆し(ゴーストライター疑惑がある)、作中では「山本伸一」の名前で登場する。
このタイトルに込められているのは、簡単に言ってしまえば「学会の信心で人間としての在り方を革命する」という所にある。
実際には、焼け野原になった戦後の東京で二代会長戸田城聖が学会の建て直しをするところから始まり、池田の自叙伝につながっていく。
もちろん、実話ではなくフィクションだ。
都合の良いところだけ宗教の精神性を押し付けるのが創価学会のやり口だ。
ある時は大石寺第26世法主日寛の言葉「祈りとして叶はざるはなし」や、またある時は日蓮の「南無妙法蓮華経は獅子吼の如し、いかなる病さはりをなすべきや」とか「法華経を信ずる者は冬の如し、冬は必ず春となる」とか「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」とかの言葉を使って「いかなる苦しみも立ちどころに解決する」という印象操作をする。
当たり前だが、自分で努力しなければどんな願いも叶うことはない。
どれほど必死に祈ったところで、事故で動かなくなった脚は元に戻らないし、金持ちになることもないし、難関校に受かることもない。
そもそも、では学会員の言う功徳とは何を言っているのか?
どんなものでも、本人がそう感じれば功徳なのだ。
現世利益を否定している癖に、仕事で成果を上げて出世すれば「学会のおかげ」、子供が寝る間も惜しんで受験勉強に精を出し、難関校に合格すれば「信心のおかげ」だ。
挙句の果てに、不運にも事故に巻き込まれたり大怪我をすれば「本来なら死んでいたところをこんなにも軽く済ませて頂いた。転重軽受できた!」などと言うのだ。
「転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)」とは書き下すと「重きを転じて軽く受く」と読むが、涅槃経に書かれている言葉だ。
生真面目な学会員が先輩から言われるとおりに唱題に精を出しても、願いが成就せず「どうしてこんなに祈ったのに?」などと疑問を抱こうものなら、「お前の信心が足りないのを学会のせいにするな!」「信心を疑っているお前が悪い」などと心ない言葉で攻撃される。
創価学会はたった一つの誤りもなく、完全な宗教であるという大前提があるので、このような組織の足並みを狂わせる者は徹底的に排除される。
こんな矛盾だらけの組織において、うまくやっていくにはどうすればいいのか?
それは、私の両親のように「(信心に対して)何も考えない、ただ上から言われたことを疑問を持たずに実行する」ということに徹すればいい。
そうすれば、不都合な事実は言葉巧みにポジティブシンキングで正当化される。
どんなに酷い目に遭おうと、必死に自分で努力しようと「学会のおかげ」「信心のおかげ」なのだ。
そうして、骨の髄までしゃぶられるまで気づかないまま年老いて朽ち果てていく。
全国の至る所にそんな高齢の学会員がうじゃうじゃいる。
それでも、自分の人生を否定したくないのか、必死に古びた仏壇に手を合わせて祈り続けるのだ。