創価学会に疑問を感じた人が辿る道

この話題に興味がある学会員は少なからずいると思う。

「どうも創価学会はおかしい、だから原点の日蓮正宗に行けば何か変わるかも切れない」

そんな淡い期待を抱き、うっかりネットに呟いたりすると、直ぐに日蓮正宗信者からマークされ、連絡が来るだろう。

今や日蓮正宗にとってもインターネットは重要な勧誘(折伏)の場なのだ。

こうして積極的に関与してくる日蓮正宗信者は100%元学会員である。

日蓮正宗には、古い代々の檀家信者と、近年創価学会から移籍した移籍組がいる。

古い檀家信者が積極的に関与してくる事はまずない。

皆、創価学会の中で上手くいかずに日蓮正宗に期待し、そして本人なりに確信を得て活動に奔走している人達だ。

まず、結論から言っておくと、創価学会日蓮正宗もやってる事は似たようなもので変わらない

ただ、全く空気が違うのは確かだ。

創価学会は後輩の同志の面倒見がとても良く、孤立する事は少ない。

青年部、壮年部、未来部どんな年齢にも積極的に面倒を見てくれる熱心な先輩会員がいる。

対する日蓮正宗は全く空気が違う。

移籍した学会員は、寺以外で関わりを一切持たない同志達に冷たさすら感じるだろう。

月に一度の御講(御書講)に行くと、誰と会話するでもなく時間が来れば黙々と式次第通りに始まる。

誰か入信者がいればその場で授戒式(創価学会からの移籍組なら勧戒式)が執り行われる(子細はまた何れ書きたい)。

 

勤行、唱題は創価学会と比較して驚く程スローペースである。

題目に入ると、太鼓のリズムが鳴り響く。

これにも学会移籍組は驚くだろう。

信者主導の勤行は導師席の横にある大きな鈴を使うが、内陣には上がらない。

上がるとしても外側だ。

導師席は僧侶だけが着く事を許される。

創価学会の言うように僧が上、俗が下なのである。

こうした事にカルチャーショック受けて、入信から早くも後悔し出す人もいるだろう。

とにかく、日蓮正宗では基本的に誰も親切には教えてなどくれないのだ。

全てにおいて自発性が求められ、一匹狼として孤独な戦いを続けていく覚悟が無ければ直ぐに活動から退いてしまう事になるだろう。

だが、本心から信仰に渇望し、日蓮正宗に移籍した学会員にとってはこの上なく充実した環境となるだろう。

全て自分の積極性に掛かっており、良くも悪くも活動は強要されないからだ。

青年部、未来部のようにお誘いを受けることも殆ど無いだろう。

とにかく、かつての日蓮正宗創価学会時代の信仰に飢えている人には、居心地がよく、そして懐かしい環境に感じるだろう。

少なからず、日蓮正宗の教義は創価学会破門以前から変わっていない。

富士大石寺の本門戒壇大御本尊を中心とした信仰が続き、御書のみならず、創価学会では殆ど学ぶ機会の無かった法華経についても学ぶことが出来る。

自ら学ぼうとする人は、本(大日蓮出版)を買い揃えれば知識に困ることは無い。

そして、創価学会とは違い、古い出版物を読んでも教義変更が無いため齟齬が生じない。

そんな所に、生真面目な移籍組は魅力を感じて行くことだろう。

このように、創価学会とは随分空気の違うのが日蓮正宗である。

自発性の無い人はどんどん置いてきぼりになり、しまいには寺に来る事もなくなる。

面倒見のよい創価学会に対して、日蓮正宗来るもの拒まず去る者追わずの姿勢なのだ。

創価学会で教えている日蓮正宗のイメージと少し違うことがあるとすれば、寄付(いわゆるご供養)を強要される事は原則無いって事だろうか。

特別法要の参加者をかき集める為に参加を強要されると言う噂も恐らく、限られたごく一部の寺だけだろう。

良くも悪くも地方の寺にはそんな活気はない。

ただ、行事で寺に行くときはご供養は必須だ。

求められることはないが、周囲の目が気になってしないわけにはいかないのだ。

私は日蓮正宗に移籍して今でおよそ13年が経過したが、最近は最小限の行事(御虫払い、御会式など)にしか参加しない。

諸々の事情があって脱退こそしないが、何れはそうするのだろう。

この事から言えるのは、移籍した学会員の多くは、殆どが活動から距離を置き、そのまま消えるように居なくなってしまうと言うことだ。

創価学会に失望し、日蓮正宗に淡い期待を抱いても、その末路は未活動を辿るのが関の山なのだ。