荒れ果てた日蓮正宗寺院の墓地

先日、とある日蓮正宗寺院に墓参に行った。

お盆が明けた翌日であったが、ご覧の通り墓地は雑草が生い茂って荒れ放題。

 

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幾つかの墓を見ると、青々とした樒と供物の缶コーヒー等が供えられ、真新しい卒塔婆が立てられている。

墓地自体は荒れていても墓参に訪れている人はいたようだ。

それでこの有様。

 

当然、墓を持つ檀信徒は墓地の管理料を納めている。

その管理料により、墓地は適切に管理されていなければならない。

 

空き区画には膝丈を超える程の雑草が生い茂り、基礎部だけ残る墓じまいをしたであろう区画には松を剪定した枝が高々と積み上げられている。

 

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他にも通路にはゴミや枯れ草が散乱し、随所に蜘蛛の巣が張っている。

 

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綺麗に雑草が取り除かれているのは三師塔のある区画の中だけ。

これはまた随分と檀信徒を舐めた対応だ。

宗祖日蓮、開祖日興、三祖日目以外の墓は放ったらかしというわけだ。

もっとも、三師塔には骨はなく、上物だけで見せかけの墓なのだが。

同様の三師塔が全国の多くの日蓮正宗寺院にあり、当然大石寺にもある。

その大石寺に三師の遺骨が無いというのは何とも皮肉な話だ。

 

余談だが、日蓮の遺骨は知っての通り日蓮宗総本山久遠寺にあり、これを疑う者はいない。

日興の遺骨は大石寺のお膝元、静岡県富士宮市北山本門寺に。

これも疑う者は無いだろう。

日目に至っては所在不明。

一説では日蓮本宗実報寺にあると言うが真相は不明。

日蓮正宗では下之坊に埋葬されていると言っているが眉唾ものだ。

bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp

 

墓地である以上、その親族や有縁の人が墓参に訪れる事は容易に想像出来るが、しかもお盆の時期だと言うのに草ボーボーと言うのはどういう神経なのか?

信者ならまだしも、それ以外の墓参に訪れた人が見たら、さぞかし驚くに違いない。

同じ穴の狢 日蓮正宗 創価学会

ふと、家にあった古い大白法を見たらこんな記事が。

 

令和5年3月1日号の「異流義破折」。

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「学会では、口を開けば『池田センセーのために』、『偉大なる池田センセー』等々、大作への称賛の数々。」

「センセー」の言い回しに馬鹿にする意図があるのは明白。

 

この日の同紙の第一面見出し。

「御報恩の自行化他を実践 御法主日如上人猊下大導師のもと 五重塔の御塔開きも厳粛に」

「池田センセー」を持ち上げる創価学会を非難しておいて、その「御法主日如上人ゲーカ」を持ち上げている。

何かのギャグなのか?

 

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「御法主日如上人猊下」には「御」の丁寧語、「上人」の号、「猊下」の尊称と言う過剰な持ち上げっぷり。

普通に「日如猊下」で良いだろうに。

 

創価学会の事を悪く言えたものではない。

日蓮もヤハウェ(エホバ)もイエスも利己的で傲慢だ

クリスチャンは「神を愛せ」と言う。

そうすれば救われると。

裏を返せば、神を愛さない人は救わないということか。

 

日蓮正宗創価学会では「ご本尊を信じろ」という。

そうすれば如何なる願いも立ちどころに成就すると。

裏を返せば、ご本尊を信じない人は救わないということか。

 

彼らの信じる神とか仏というのは、価値観の異なる人間を嫌い、剰え滅ぼそうとさえする(旧約聖書なんかまさにそう)。

創価学会日蓮正宗では日蓮を仏と崇めて「日蓮を信じない者は地獄行き」と教えてきた。

「自分のことを好かない人間など救ってやらん」という神仏の何処に慈悲があるのか。

 

こんな馬鹿みたいな当たり前のことさえ信者は見えなくなってしまうらしい。

当時の私もそうだった。

きっと、そんな説得をされても聞き入れることは出来なかっただろう。

 

「神を愛さないことには、如何に神であっても救うことが出来ないのだ」

なら、その時点で全能ではない。

 

「ご本尊を信じないと地獄に落ちる」

なら、もはや疫病神だ。

最初からご本尊などという紙切れを手に入れない方がマシということになる。

 

いい加減、詭弁をやめて「神仏は利己的で傲慢だ」と認めたらどうだろう?

もっとも、信者は金づるなので死んでも認めることはないだろうが。

宗教は今後10〜20年で大半が壊滅すると思う

籍を残している日蓮正宗の御講の参加者の大半は高齢者。

最近はめっきり寺から遠のいたが、見ていてはっきり実感できた。

参加者の全体数も少ない。

土曜日の御逮夜(おたいや)は数えるばかり。

日曜日の正当会(しょうとうえ)もそんなに多くない。

8割が高齢者。

毎月初日に行われる御経日なんて、高齢者以外参加しないだろう。

仕事がある人は呑気に参加なんて出来ないのだし。

聞くところでは、広布推進会だの、役員会だのは肝心の役員のなり手がいないとか。

 

きっとこの現実は創価学会も変わらないと思う。

私が創価学会時代、男子部だった時も人手不足で壮年部に行くべき年齢の人が男子部に居残っていたくらいだ。

多分、座談会の参加者の大半は高齢者だろう。

 

これは宗教全般に言えると思う。

キリスト教系でも、他の日本仏教でも主に教団を支えているのは高齢者かそれに近い世代だと思う。

 

あと10年後、高齢者のうち70歳以上のかなりの人がこの世からいなくなる。

20年後、大半がいなくなる。

残っていたとしても、集会や活動で主力にはならない。

 

なのに、若い世代の入信者は増えていない。

むしろ減るばかりだと思う。

特に私みたいな二世や三世はどんどん辞めていくだろう。

力づくで強要していた親も高齢化し、二世、三世は経済的にも力が強くなっているし、もう押さえ付けて無理矢理集会に出させるのも無理だろう。

そうなれば宗教の役割は益々必要が無くなる。

 

1996年頃から徐々に普及したインターネットは、今や生活基盤として不可欠なものた。

ネットのなかった時代と違い、今は何でも検索して情報を探す事が出来る。

 

日蓮正宗創価学会にとって不都合な歴史も簡単に見つかる。

もう、隠すことは出来ない。

信仰心の乏しい二世、三世がこれを見ればどんどん退会していく。

 

もう、宗教には未来がないのだ。

歴史ある寺社仏閣も存続が危ぶまれるだろうが、こうして自然淘汰されていくと思う。

それが時代の転換点なのだろう。

 

20年前まで世間を大いに騒がせた創価学会は、次第に勢力を失い、いつの間にか忘れ去られると思う。

自公連立も何れ解消されるだろう。

 

「唯一正しい」と標榜してきた創価学会日蓮正宗が勢力を落とし、存続を危ぶまれる事態に陥った時点で、その正当性とやらは嘘になる。

それは、そう遠くない将来訪れる。

宗教に依存すると信者は自分で考えなくなる

およそ一年振りにブログを更新した。

引っ越し、母の死、父との対立など、あらゆる問題に直面し、なかなか更新しようという気が起きなかった。

 

 

うちの両親の馴れ初めは創価学会の集会(座談会か?)にあったと聞いている。

悔しいが、創価学会で二人が出会わなければ私はこの世に生まれてくることすら無かった。

もっとも、生まれてこなかった方が良かったと思っているが。

 

そんな両親は、私が小学2年生の頃引っ越したことを機に変わった。

それまで住んでいた家は、とても手狭で少しでも広い家へと別の市に引っ越すことを決めた。

両親曰く、引っ越した先の創価学会組織は、みなやる気がなく、折伏にしろ、新聞啓蒙にしろ、日々の活動にしろ、真剣にやっている様子では無かったと言う。

また、この地域は古い町並みでそこかしこに神社や寺があり、年に一度周辺の道路を封鎖して、大規模な祭りが行われるほどの「邪宗の都」だった。

創価学会の歌、いわゆる学会歌「威風堂々の歌」の三番の歌詞には「我ら住む日本の 楽土見ん 北山南河は邪宗の都」とあるくらいで、それほどに創価学会は他宗教を邪宗と罵り、嫌ってきた。

そんな地域に引っ越して、組織で活動をするうちに、両親は他の学会員から称賛されるようになっていく。

始めはB長だかB担だかのほぼ末端の役職だった両親は、あっという間に支部長、支部婦人部長の座に上り詰めた。

 

多くの学会員に称賛され、両親の虚栄心は大いに満たされたに違いない。

しかし、私は幼くして見知らぬ地に転居し、学校にも馴染めずにいた。

加えて、宗教に関わる学校行事に不参加を強制されていたことから、教師から煙たがられていた。

 

両親は、当時存命だった祖母に家事子育ての多くを任せ、母は平日の朝から晩まで活動に奔走し、父も土日そっちのけで「今日はどこそこの座談会だ」「今日は何何だ」と言って、殆ど家にいることはなかった。

幼い頃の心の拠り所は、今は亡き優しい祖母だった。

 

父は当時、仕事では係長職で、私が後に知った限りでは平均的な給料を貰っていたように思う。

それなのに、我が家は慢性的に貧困状態にあった。

小学生の時に貰った小遣いは月500円だったが「今月は厳しいから」と言って、その500円すらもらえない時があった。

何しろ、金があったらあっただけ「ご供養」や、学会の活動費(交通費や遊興費)で使ってしまうので、貯金など全く出来ない、というより貯金という発想そのものが無かったのだ。

今思えば、遊興費にかこつけて、両親は私たちの知らぬところで飲み食いしていたことになるわけだが、それも二人からすれば「広布のための清い行いの一環」だったのだろう。

 

金の話に子供が口を挟むのは悪いことだと言われていた時代だけに「お父さんは給料は幾ら貰ってるの?」などと聞こうものなら、口より先に手が出て「子供の癖に親の金の話に口を挟むな!」だった。

そんな環境なので、家計のやりくりなど知るよしもなかったし、何より金について学ぼうという発想そのものが芽生えなかった。

成人してずっとしてから「我が家の貧困は、宗教が原因だった」と気づいたのだった。

 

両親はその事実にずっと気づくことは無かった。

母に至っては、その事実に触れることなく、昨年病死した。

母の病死を機に、父は今まで続けてきた「自転車操業」のツケを払わされることとなる。

この時になるまで、一切、貧乏の要因について考えることは無かった。

 

私が幼少期に酷いイジメに遭ったことにしても「うちの子がいじめられる原因は何か?」ということについて考えようとはしなかったようだ。

ただ、私の過去世(前世)の宿業で、今その報いを受けている、そう繰り返すばかり。

当時は、自分の記憶にもない前世とやらの行いの報いを受けさせられているということに激しい理不尽を感じていた。

しかし残念ながら、幼少期から徹底して「宗教が何よりも優先される」という思考が刷り込まれていたため、深く考察しようという発想が持てなかった。

 

学校でいじめられるのも、社会に出て会社で人間関係が上手くいかないのも、体調不良が続くのも、ありとあらゆる不幸に思える要因は、私の前世の報いにあると言うのだ。

子供の頃、泣き泣き「俺は一体過去世に何をしたっていうの?人殺しでもしたの?どうして俺だけこんな目に遭うの?」と母に問い詰めたことがある。

いつも帰ってくるのはこんな言葉だった。

「お前(私)はきっと、仏法の邪魔をしたり、そういう人を殺したのだろう。そうでもなければ、こんな目に遭うはずがない。でもね、これだけ悲惨な目に遭うということは、お前はそれだけ大きな宿命を持っているんだ!私(母)は嬉しい!お前みたいな大きな宿業を持つ子を迎えられたのは、きっと我が家が宿命転換を果たすためなんだから」

 

もし、もっと頭の良い親に巡り会えていたら、いじめられる原因についてはっきり教えてくれただろう。

イジメはいじめる側が悪いが、されるのにも多くの場合理由がある。

それを知って、少しでも友人を作って多くの仲間を持っていたら、陰湿なイジメの被害を受けるリスクは減らせたのでは無かっただろうか。

母は「反面教師」の意味で、イジメ加害者を「第六天魔王となってお前に(仏法誹謗の罪業の重さを)教えてくれている」と言ったのだろう。

 

余談だが、私が病気がちなのは、酷いイジメに遭ったのに無理矢理学校に通わされ、殴る蹴るされるたびに「相手がお前(私)の業を受け取ってくれるんだから感謝しろ」と言われ、我慢を続けた結果だと思っている。

今でも、急に過去のことを思い出し、精神が情緒不安定になることがある。

ニュース報道で他人の酷いイジメの話を聞くと、激しい動悸と加害者に対する異常なまでの怒りで、精神が普通でいられなくなってしまう。

若いときには、これで過呼吸発作を起こすこともあった。

酷く自律神経を崩し、何をやっても不安を感じる、そんな自己肯定感が低く生きることが苦しい子供に育ったのはこういう家庭環境にあったからだ。

 

そして、これだけ子供を追い詰めてなお「我が家の経済革命だ!」と言って、給料の大半を宗教活動や「ご供養(広布基金=財務)」につぎ込んでいるんだから、「考えないで行動する」というのが如何にたちが悪いかよくわかる。

しかし、こうして我が家を冷静に分析できるようになったのは、つい最近のことであり、親への反抗心から創価学会を脱会し、日蓮正宗に入信してもなお気づくことは出来なかった。

 

それでも何とか我が家のやりくりが上手く回って見えていたのは、30数年前に建てた自宅を担保とするカードローンがあったからだ。

ひょんなことでこの存在を知ったのは昨年のこと。

父が金策に追われ、私に金を無心して泣きついてきた時に初めて発覚した。

金を貸すような余裕のない私は、債務整理をすべく父に通帳のコピーを送らせたところ、不信な引き落としがあり、それを問い詰めた結果分かったのだ。

引き落としについて尋ねても「言いたくない」「言えない」を繰り返すばかり。

「いい加減にしろ!金払えないって言うなら、はっきりさせるしか無いだろ!」と迫ったらやっと口にした。

その額、実に970万円。

もはや、債務整理どころの話ではない。

 

常日頃、家計簿など付ける習慣の無かった母は、父の給料が底をつくと父に金の相談をしていたようだ。

すると、そのカードローンから借り入れし、足りない生活費やら学会の費用に充てていた。

母はその出処不明の金について問い詰めることはなく、また父も足りない生活費について聞こうとすることはなかった。

その生活費の不足分は、負債として長い年月をかけて1000万円近くにまで膨らんだ。

全く、嫌というくらいに「何も考えない」のだ。

なまじそれで何とかなっていたのが運の尽きだ。

 

もし、あと15年早くこの借金に気づくことができていれば、家族総出で返済することが出来たかも知れない。

そう思うとやるせない気持ちだ。

 

もはや、家を担保にした多額のローンを返せる目処などなく、父は毎月利息だけを返済している。

こんな生活を最低でも20年以上続け、私たちを欺いてきたのだ。

この借金の事実は「墓場まで持っていくつもりだった、話さないつもりだった」と言われたときには、「ただでさえ関係が悪い俺と弟に借金の事で仲違いさせるつもりだったのか!?」と思ったものだが、当の父は何も考えてやしなかったのだ。

 

父が寿命を迎えれば、思い出の詰まった実家や家財道具一切合切が失われてしまう。

片田舎の二束三文の土地に建った築35年を超えるような家をどうして1000万円も払って取り返そうという気になれるだろうか。

 

 

宗教二世の苦しみは、単に価値観を押し付けられることに終わらない。

幼い頃から洗脳(親にその自覚はない)され、徹底的に骨抜きにされ、何を判断するにも宗教が前提になってしまうのだ。

つまり、人生の大事な選択全ては宗教で決めてしまっていて、自分の頭で考えない。

 

「人を恨んでも何もいいことなんてない」

このように言う人がよくいる。

その人にもその人なりの苦労があるだろうが、人生の9割をぶち壊された人間にとって、この言葉は非常に残酷なものだ。

 

皮肉なことに、宗教二世問題は安倍晋三元総理大臣の銃撃暗殺事件で注目されることとなった。

犯人の山上容疑者が行ったことは決して許されるものではない。

何故に標的を安倍晋三氏にしてしまったのか?という疑問もあるが、彼の凄惨な生い立ちを知れば知るほどに「きっと、彼の境遇なら私も似たようなことをしただろう」と思ってしまう。

彼も気がついたときには何もかも手遅れで、考えることをしない親に激しい憤りを感じたに違いない。

宗教の恐ろしさは、この「自分で考えない」というところにあると思う。

 

我が家を振り返れば、大事な選択は全て宗教で片付けてきた。

「ご本尊様に祈って決めよう。ご仏智を頂いて決めよう」

と、こういう感じで。

その末路は、家族関係崩壊という形で幕を閉じようとしている。

創価学会の「信心」で金持ちにはなれない!病気は治らない!難関校にも受からない!

こんな当たり前すぎることも分からなかった両親。

これを現役の学会員に訪ねればこう言われてしまう。

現世利益を追求するからそうなるんだ

 

ではそもそも、創価学会の信心とやらで何が変わるんだろうか?

それは、学会で日頃から使われている言葉にヒントがある。

池田大作氏の著書で学会員の実質的な聖典である「人間革命」だ。

池田氏法悟空ペンネームでこれを執筆し(ゴーストライター疑惑がある)、作中では「山本伸一」の名前で登場する。

このタイトルに込められているのは、簡単に言ってしまえば「学会の信心で人間としての在り方を革命する」という所にある。

実際には、焼け野原になった戦後の東京で二代会長戸田城聖が学会の建て直しをするところから始まり、池田の自叙伝につながっていく。

もちろん、実話ではなくフィクションだ。

 

都合の良いところだけ宗教の精神性を押し付けるのが創価学会のやり口だ。

ある時は大石寺第26世法主日寛の言葉「祈りとして叶はざるはなし」や、またある時は日蓮の「南無妙法蓮華経は獅子吼の如し、いかなる病さはりをなすべきや」とか「法華経を信ずる者は冬の如し、冬は必ず春となる」とか「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」とかの言葉を使って「いかなる苦しみも立ちどころに解決する」という印象操作をする。

 

当たり前だが、自分で努力しなければどんな願いも叶うことはない。

どれほど必死に祈ったところで、事故で動かなくなった脚は元に戻らないし、金持ちになることもないし、難関校に受かることもない。

 

そもそも、では学会員の言う功徳とは何を言っているのか?

どんなものでも、本人がそう感じれば功徳なのだ。

現世利益を否定している癖に、仕事で成果を上げて出世すれば「学会のおかげ」子供が寝る間も惜しんで受験勉強に精を出し、難関校に合格すれば「信心のおかげ」だ。

挙句の果てに、不運にも事故に巻き込まれたり大怪我をすれば「本来なら死んでいたところをこんなにも軽く済ませて頂いた。転重軽受できた!」などと言うのだ。

「転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)」とは書き下すと「重きを転じて軽く受く」と読むが、涅槃経に書かれている言葉だ。

 

生真面目な学会員が先輩から言われるとおりに唱題に精を出しても、願いが成就せず「どうしてこんなに祈ったのに?」などと疑問を抱こうものなら、「お前の信心が足りないのを学会のせいにするな!」「信心を疑っているお前が悪い」などと心ない言葉で攻撃される。

創価学会はたった一つの誤りもなく、完全な宗教であるという大前提があるので、このような組織の足並みを狂わせる者は徹底的に排除される。

 

こんな矛盾だらけの組織において、うまくやっていくにはどうすればいいのか?

それは、私の両親のように「(信心に対して)何も考えない、ただ上から言われたことを疑問を持たずに実行する」ということに徹すればいい。

そうすれば、不都合な事実は言葉巧みにポジティブシンキングで正当化される。

どんなに酷い目に遭おうと、必死に自分で努力しようと「学会のおかげ」「信心のおかげ」なのだ。

そうして、骨の髄までしゃぶられるまで気づかないまま年老いて朽ち果てていく。

全国の至る所にそんな高齢の学会員がうじゃうじゃいる。

 

それでも、自分の人生を否定したくないのか、必死に古びた仏壇に手を合わせて祈り続けるのだ。

 

本門戒壇の大御本尊の証拠?日興跡条々事の考察② 余白に何が書かれていたか?

関連の記事はこちら参考まで。

 

sokayameta.hateblo.jp

 

今回は不自然な余白について取り上げたいと思う。

 

日興跡条々事 改竄箇所

日興跡条々事 改竄箇所

日興充身所給弘安二年大御本尊□□□□日目授與之可奉懸本門寺

 

ところで、富士宗学要集を見ると、日興跡条々事の前置きなのか、こんな解説が書かれている(第八巻 18頁)。

目師譲状、祖滅五十一年、富士開山日興上人より三祖日目上人に総跡を譲られたるもの、正本案文共に総本山に厳存す。

 

この案文というのが日興跡為後書置條之事のことだと思われる。

日興後条々事の下書き、草案に当たるものだ。

創価学会員の金原明彦氏の著書「日蓮と本尊伝承」で初めて公にされた文献だ。

 

日興跡為後書置條之事 解読文

日興跡為後書置條之事 解読文

 

余談だが、立正佼成会の信者である東佑介氏の著書に気になる事が書かれている(大石寺教学の研究 57頁)。

これ*によると、案文(草稿)には「弘安五年御下文」が記されていたが、正本には記されなかったということになり、堀師が正本と位置づけた「日興跡條條事」は清書された正本ではなく、案文ということになろう

 

文中の「これ」は、阿部日顕の昭和51年の夏期講習会における講義のことで「日興跡条々事には別に下書きがありますね。下書きには、お下し文ということが書いてあるんです。それをまたお考えになって、この正規の日興、日目上人への譲り状には、それを削られた訳であります。」という箇所を指している。

 

ここで日顕は「この正規の日興、日目上人への譲り状には、それを削られた訳であります」と述べているので、この削り取られた文献こそが、現在大石寺にある「改竄された後の日興跡条々事」を言っている。

 

東氏は富士日興上人詳伝で日亨が引用した「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す」(後述)を草案である「日興跡為後書置條之事」と誤認しているようだ。

日亨の引用は種々の史料から導きたした本来の「日興跡条々事」の文を引用したのであり、つまり「改竄が加えられる前の日興跡条々事」を意味していると考えるべきだろう。

 

話を戻して、日興跡為後書置條之事の当該箇所を解読してみる。

日興カ(が)当身(に)給(る)所(の)弘安貳年大本尊並(びに)弘安五年二月廿九日御下文一期之後日目(に)之(を)授与(す)

 

奇遇なのは、これについて堀日亨が興味深い事を富士日興上人詳伝に書いている。

まずは本来書かれていたであろう内容の日興跡条々事だ(上巻  161頁)。

一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す。

 

日亨は日興跡条々事の削り取られた箇所を「弘安五年(五月廿九日)御下文」と解釈している。

余白の広さを見る限りでは、四文字からせいぜいは七文字くらいまでしか入らなそうだ。

括弧書きされた「五月廿九日」については、同日興上人詳伝にヒントがある(上巻 165頁)。

大石寺の目師譲状の御文に「弘安五年御下文」の七字がいつとなしに抹消せられたのも、

 

日亨日付を括弧書きとしたのは読者への便宜であり、実際に書かれていたのは「弘安五年御下文」とするのが正しそうだ。

 

ただ、この場合でも先の草案と内容が異なる。

日亨は「弘安五年五月廿九日」としているが、草案には「弘安五年二月廿九日」とある。

 

日興跡為後書置條之事 二月廿九日

日興跡為後書置條之事 二月廿九日

 

この日付は二箇所に書かれているが、赤字で示した。

どう読んでも「二月」であり「五月」ではない。

 

次回は、この「弘安五年御下文」について検証したい。